また牛乳一本でビニール袋?

 

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 みなさんは「郊外」といえば、何をイメージしますか?整然とした街並み、同じような家が立ち並ぶ住宅街。そこはまさしく、人が夜寝るだけの場所、「ベッドタウン」なんて和製英語はよく作ったものです。駅を中心にして、スーパーやドラッグストア、マクドナルドや牛丼チェーン店があり生活には不便はないけれども、わざわざ降りて行くまででもないところ。

街中でもなければ、人里離れた農村でもないそんな曖昧さを持つ郊外は、都市いや、一国の成長とともに、人々を支えてきました。首都圏と京阪神の人口がそれぞれ3700万、1900万といる現代の日本において、その人々のおそらくほとんどが今言ったような郊外で生活しているはずです。一方でその「郊外」について着目されるというのはほとんどありません。いつも私たちの目に映るのは都市賛美かそれに対する批判だけであって、その両義性がある郊外に話題が上がるのは引っ越しなど、不動産に関連することだけではないでしょうか。なぜ人々はもっと郊外に目を向けないのでしょうか。と、偉そうに常々思っていたのです。

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この風景がふるさとなのでしょうか

 そんな中、私は「郊外に焦点を置いているな」と思った作品が一つだけあります。それが、ジブリ作品の一つ『耳をすませば』という作品です。もう、今から四半世紀も前の話なので携帯電話がないなど、いくらでも批判はできると思うのですが、それでも団地やコンビニエンスストア、新興住宅地、私鉄沿線、歩道はないけど車通りは多い狭い道など...非常に日本の郊外を忠実に描かれていると思います。ジブリ作品は都市や資本主義社会に対する批判のものが多く、私たちが失ったものを気づかせるような作品が多いのですが、これだけは違います。いや、もちろん一種の批判ではあるのですが、「どんなに言ったって、トトロにでてくるような自然は戻らないのだから。」「でも人々の愛は変わらない。」といったような諦めと容認の上に、物語は進んでいきます。私はこの作品が人々に愛される理由は決して、青春の淡い恋愛ストーリーがあるだけではないと思います。それだけの作品であれば、世の中に腐るほどあるでしょう。それだけではなく、そこに郊外の特異性を付け加えるからこそ、(自分が郊外で育ったことに意識していない)人々は青春時代に見た景色(狭い2車線道路で自動車に気を配りながら歩くシーンなど)と無意識のうちにマッチンングして心に刻まれているのではないでしょうか。さらに、主人公の月島雫には田畑が広がる田舎とか人情味溢れるような商店街のような”ふるさと”はありません。そこを強調させるために、雫のお父さんの地元・新潟の柏崎が度々会話に出てくるのでしょう。だからこそ、彼女が作ったカントリーロードの訳詞は「あの街に続いてる 気がする」というように、あくまでも気がする だけなのです。

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  一方で、現実世界はこの物語から四半世紀が経ちました。私たちは今と比較すると、しばしば「携帯がない。」「パソコンがない。」と言うでしょう。しかし私たちはそれと匹敵するくらい大きな、ショッピングモールの存在で忘れていませんか?いやもう当たり前過ぎて意識していないのかもしれません。21世紀に入ると各地にイオンモールだとか、ららぽーとのような、箱型の商業施設が立ち並びました。その傍ら、百貨店は衰退しました。彼らは郊外の自宅から自動車を走らせ、直結の駐車場から外気に触れることなく買い物や食事を楽しみます。まるで、アメリカやカナダの地方都市郊外の暮らしをしているようです。そんな環境下で育った、子どもたち(私たちの世代です。)は自分の街をどのように見ているのでしょうか。

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 『耳をすませば』が舞台となった多摩ニュータウンは、老朽化や高齢化による問題になっています。そしてよく都市は郊外から衰退する、と言われます。その一方で都心回帰という言葉が話題になっています。東京や大阪でここ近年で建設された高層ビルはよく見るとほとんどマンションばかりです。

雫が生活した団地は、原風景となることなく高度経済成長を支えるだけの使い捨て住宅にしか過ぎないのでしょうか。そして私たちが幼い頃に見たショッピングモールは長い世代に渡って、存在しつづけるのでしょうか。30年後に郊外は存在しているのでしょうか。

それを決めるのは私たちかもしれません。